釘と屏風

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”釘と屏風”は3人組の文芸ユニットです

【雑記】ビブリオバトルに行ったーKENTOSYO、中原昌也『名もなき孤児たちの墓』を久々に読んだ新刊おめでとうございます。(左部)

ビブリオバトルに行ったーKENTOSYO、中原昌也『名もなき孤児たちの墓』を久々に読んだ新刊おめでとうございます。

 

  表情には出さずとも内面では怒りに打ち震えていた雅治も、再び『月刊BOMBER』七月号の表紙を見つめることによって、そういった我々の背後に迫り来るファシズムの脅威を忘れ、見出しとして書かれているセクシャル・ファンタジーに胸躍らせ、つかの間のひとときを過ごしたのだった。

   もうこれ以上書く気が起きない。

   しかし、どうしても所定の枚数を書かないといけない。編集者と約束したのだから、無理にでも書かねばならない。こうしていままで、誰にも望まれない孤児のようなものばかりを自分は量産してきた。

中原昌也「名もなき孤児たちの墓」『名もなき孤児たちの墓』新潮社、2006.2

名もなき孤児たちの墓 (文春文庫)

名もなき孤児たちの墓 (文春文庫)

 

 

冬は去り、桜がチリチリと芽吹いて春が来て借金が増えた。暖かな気温となって、通りを歩く人の表情も陽気に見えるが空元気かもしれない。借金ローンリボ払いの三重苦に陥ってもなお陽気に街を闊歩しているだけにすぎず、「辛い時こそ笑え」というテーゼに身をつまされているだけなのかもしれないのだ。私もまた、へらへらと街を闊歩している。 ところでこの前散歩していたら綺麗な本棚をゴミ捨て場で拾った。ラッキー。思いのほか重くて家まで30分かかった。部屋が片付いた。

 

・・・ところで最近ビブリオバトルに参加した。紹介させていただく。

 

ビブリオバトルが鹿児島県立図書館であった。

 

一言で言えば、好きな本を5分で紹介する会だ。「バトル」なんて少年漫画好きな男臭いにおいがぷんぷんと漂っていて敬遠したくなることこの上ないが、安心してほしい。人による。

 

ごくごく純粋に好きな本を紹介したい人もいれば、本好きな人と交流したい人もいる。別に本はそんなに好きじゃないけどイベントを楽しみたいという人もいる。「オレ/ワタシってこんな本読んでるんだぜえ」とオラオラしてる人もいる。5分間、参加者の前に立って話をするのだが原則として内容を考えてきてはいけない。けれど当然、考えてきてる人もいる。「バトル」に勝ち上がりたいと考えてる人だ。

 

ちなみに私は純文学を広めたいという目的を持って参加しているがそういう人もいる。参加者それぞれの目的やスタンスを温かな目で見守ることが要請される。こういったイベントに参加すると「会のレベルが〜」「なんであんなのが〜」とかピリついている人がいるが、そういう人は然るべき場所に行けばいいと思う。ピリついた人も含めて温かな目で見守ってあげよう。

 

それはそうと、この日は30人くらいの人がいた。発表者は10人程度。10代から60代近い人まで年齢層は幅広かった。発表されたのは、以下の本だ。

 

twitter.com

 

ご覧の通り、色んな本がある。一見してなんの本かよく分からないが、安心してほしい。参加した私もよく思い出せない。なんの本か忘れたが、とりあえず聞いている時は楽しかったし2冊ほど読んだ。みんな楽しそうに喋っていた。

 

つまるところ、なんでもいいのだ。

 

発表に関してもなんでもアリだ。パッションさえあればいい。私の観測した限りでも、タイトルを間違えてる人がいた。でも誰も指摘なんてしない。もうなんでもいいのである。内容だって「ん?」と思うところもあるし私も発表していて「あれ、この本こんな内容だっけ」と思うことも多い。恥ずかしいことじゃない、みんな緊張してるし分かったふりして見栄を張ってもいいじゃないか。

 

これまで発表者として3回、観覧者として2回参加したが、どちらも楽しい。1つの発表毎に質問時間が2分ある。質問と回答があっていないことはザラだ。私は質問されると「カッコつけたろ」と思って気取った態度で専門用語(と私が思っているイケてる言葉)を並べたりするが大体何にも伝わらないしダダ滑りする。家に帰ってまで煩悶するということはザラだ。素直になろう。

 

会の終わりに、投票して「どの本を一番読みたいと思ったのか」を決める。そうしてバトルの勝者が一言しゃべって、会はお開き。あとは歓談の時間である。そんなんめんどいと思ったら帰ればいい。私は自分が読みたいと思った本の発表者とお話をしにいく。相手が嫌そうな顔をしていたら退くのがマナーだ。本好きだからといって誰もが仲良しこよしになれる訳ではない。あなたに声をかけてくれた人には優しくなろう。

 

ちなみに、私は地元のビブリオバトルに参加した時、小学三年生の男の子がただ1人ニコニコと話を聞いてくれていたのが嬉しかった。人が空から降ってくる街で降ってくる人を打ち返すことを仕事にしている男を主人公にした小説を発表して顰蹙を買っていただけに嬉しかった。少しだけ引用しよう。

 

 俺の懐に飛び込んでくる老人、この距離で見てそれは老人としか思えない。この角度からでは表情は伺えないが、確認の為に回り込むほどの時間的余裕はない。頭を下にさかさまに直立して落ちてくる。それとも静止した老人に向け、この宇宙が落下していく。

   バットを構え、腰を落とす。顎を引いて脇を締める。落下してくる老人を見据えて、俺はスイングに移行する。何故かという問いはありえない。俺はレスキュー・チームの四番であり、備品はバットで、バットには結局バットとしての用法しかありえない。

円城塔オブ・ザ・ベースボール文芸春秋2008、2

 

オブ・ザ・ベースボール (文春文庫)

オブ・ザ・ベースボール (文春文庫)

 

読みたくなりますよね?

 

 

ちなみに、この前のビブリオバトルでは、壮年の記者の方が褒めてくれた。嬉しかった。これは自慢であるが、本と言うより私の発表の方法が良かったらしい。売れない営業マンとしてはとても嬉しかった。イエイ。まぁしかし、私がその人に褒められたように、誰もが誰かにヨキヨキと思われていることだろう。褒められると嬉しい。私は記者に褒められたという話をTwitterを始めリアルの友人にも吹聴して眉をひそめられた。

 

この浮かれっぷりと言ったらないだろう。ちなみに、反省文もきちんと呟いている。

 

 

これも、なんというか、何かしらのアピールだろうと分析している。「で?」という声が聞こえるようだがそれも幻聴であり本当は何も聞こえない。自己満足である。

 

何はともあれ、自分の好きな本を持って行って一冊5分で語る。これが案外面白い。皆さんも是非機会があったら参加してみると良い。ちょっと固そうだなと、「ビブリオバトル」の字面から感じてしまう人もいるかもしれないが、上に書いた通り、なんてことない。子どものあやとりの方が幾らか崇高だ。

 

リンクをいくつか。

 

ビブリオバトル

知的書評合戦ビブリオバトル公式サイト

 

・鹿児島でビブリオバトルの情報をくれるだろう人

鹿児島でビブリオバトルをする男 (@biblio_kago) on Twitter

 

ビブリオバトルのホームページを見たら、私の理解とは若干異なるのかもしれないと思った。まあでも、楽しくやれたらなんでもいいんじゃないかなと思った。正しいのは公式みたいだが、おそらく地方の大会はこのルール守ってない。

 

おわりに

 

急に話のベクトルはずれますが、

近年、活字離れ(特になんか教養とか呼ばれる古典などなど)が声高に叫ばれている。柄谷行人氏が近代文学の死を宣言して何年が経ったろう(60年代のはじめから90年代のはじめ位まで、文学がえばっていたので、その時代が終わった、と)これを読んでない奴は猿だなんだと帯書きされて『必読書150』が出版された。「反時代的「教養」宣言」からおよそ20年。その著者の名前さえ、多くの人は知らないだろう。私もよく鍋敷きに使っていて、よれはじめている。

若い批評家は教養の復興を目指してガツガツと本を作ってもいる。

 

そんな中、批評家の東浩紀は語る。

 

   哲学や批評が売れなくなったとよく言われますけど、(中略)一方に、健康なマジョリティによって日々消費される大衆文化があり、他方に、気どった変人たちのためのハイカルチャーがあるというふうに、二つの文化を階級差のように捉えることは根本的な間違いです。そうではなくて、この二つは人生におけるステージの差なんですね。社会に生きる大多数の人は、どの時点を取ってもその瞬間は健康な人々ですから危機に陥ったときに読むものとしての哲学や批評が、リアルタイムの消費において大衆文化に負けてしまうのは当然のことです。(中略)人生においては必ず、それだけではやっていけなくなるときが訪れる。哲学や批評はそんなときのためにある。だから、いまこの瞬間においてはマイナーであっても、どんな人でも人生において一回は立ち寄るという意味では、哲学や批評はメジャーであるというふうに視点を切り替えることこそが重要です。(中略)健康とはマジョリティのことであり、そこでは哲学や批評は必要とされません。そしてそれはそれでいいのです。(中略)細かくみれば「マジョリティ」という実体などは存在せず、ひとりひとりの人間がいるだけで、彼らがそれぞれのリズムで病に陥ることにあるのです。そんなときに立ち寄れる場所を、哲学者や批評家が用意しておけばいいというだけの話です。

東浩紀「職業としての「批評」」『文學界』2018.12月号

 

落ち込んだときに、本(ここでは哲学とか批評)読むって手段があってももいいよねー、ってことではないだろうか。

色んな本を知る手段、人がどんな本を読んで立ち上がるのかを知るためにビブリオバトルに参加するのもいいのかもしれない(深刻な話をされる方も当然いる)。本来出会う予定でなかった本と人が出会うということは、いつだって素晴らしいこと、なのかもしれませんね。

 

ではまた。

 

※ここで書かれてる哲学とかなんや難しい本の手引きとして私が重宝してる本を一冊。市内の図書館にはあります。

 

勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方

勉強するのは何のため?―僕らの「答え」のつくり方

 

 

 

文・左部