【漫画】山田花子『神の悪フザケ』(左部)
概要『神の悪フザケ』
自信がないので人にはっきりものを言うことが出来ない。それでいて、人の目ばかりを気にしている。頼みごとをはっきりと断ることも出来ず、それでいて、不平を募らせている。不器用少女たちを描いた短編集。
山田花子のプロフィール
山田花子(やまだ・はなこ)
1967年6月-1992年5月
1987年8月『週刊ヤングマガジン』の月間新人漫画賞に「人でなし」が激励賞に入選
1988年1月から『神の悪フザケ』を『週刊ヤングマガジン』誌上で連載をはじめる。(89年2月まで)
1992年5月東京都の団地11階から投身。没年24歳
所感
視点人物が、あまりにも「かわいくない」状態にデフォルメされているのが特徴的な本作。これは、キャラの内面の脆さ、弱さ、自意識の高さを強調して風刺するために取られた手法だと言える。本書の編集後記で編集者である手塚能理子も書いているが、『さえない、モテない、目立たない』女の子たちを、山田花子は徹底して描いているのである。
『さえない、モテない、目立たない』女の子たちを単に描写するだけでは、『神の悪フザケ』をはじめとした山田花子の作品が現在まで読み継がれることはなかったに違いない。
作中には時折、作者である山田花子の声がナレーションとして挿入される。
楳図「君さ、いつもひとりぼっちでさぁ見てるとつらいんだよ」(セリフ)
たまみ「楳図君て結構優しいんだな」(モノローグ)
山田「たまみは男の人とつきあってみたいとつねづね思っていたのである」(ナレーション)
山田「ここでお互いに(無意識の内に)自分勝手な快楽のみを(相手のためではなく)期待しているということに注目したい」(ナレーション)
(引用:山田花子『定本 神の悪フザケ』 青林工藝社2000)
登場人物たちの不器用なやり取りには、一貫して山田花子独自の注釈が付けられている。作者登場型のメタフィクションの構造を持つ本作の中で、不器用にも傷つきながら生きる少女たちは作者の冷淡な眼差しによって、その滑稽な有様が非情なまでに可視化(山田の視点の中で)されているのだ。
「注釈」と言えば聞こえはいいが、そこに書き出される言葉は、明らかに恣意的であり、山田花子の心情の吐露、嫌悪の現れと言って過言ではない。山田は自らの描く少女たちを軽蔑しきっていると言っていいだろう。
ではなぜ、このような方法で書く必要があったのか。
私は、この注釈=軽蔑には山田花子の「こうはなりたくない」「こうなってたまるものか」という願望が隠されているのではないかと思うのだ。
即ち、山田花子本人が、作中に描かれているような、『さえない、モテない、目立たない』女の子になる恐れを抱いていたのではないか、と。
自分の不安や恐れの対象を積極的に描き、そこにダメ出し、という形で注釈をつけることで、山田花子は自身の不安を払拭しようとしていたのではないだろうか。(ダメ出しできる自分であれば、作中の少女たちのようにはならない、と)
そう考えた時、『神の悪フザケ』は作者の自己防衛として描かれたのだ、と断定してしまうのは極論だろうか。山田は『神の悪フザケ』を書くことで自身の不安を拭い去り、その身を一新してしまおうと画策したのだ、と。
おわりに
今回の『神の悪フザケ』の感想は、著者本人と大きく結びつけてのものとなった。
作品本来が持つ価値を十分に評価できなかったことが情けないが、それだけ、作者である山田花子が魅力的なのだ。もちろんそれは、作中の随所に登場しては自らの書いたキャラクターにダメ出しを続ける著者をも含めてである。
若くしてその身を投げてしまった漫画家、山田花子、彼女に興味を持たれた方は、是非ともその著作を参照されたい。
ではでは。
文・左部右人